枯淡の極み!銀閣寺

京都観光でもっとも人気の高い、きらびやかな「金閣寺
そこには圧倒的な存在感がありますが、「金閣寺」とは異なった趣きとして「渋み」にふれてみたいとお感じでしたら「銀閣寺」への京都まちなか散歩がおすすめです。本日は、京都市左京区にある「銀閣寺」へとぶらり散歩の歩を進めて参ります。

「金閣寺」の正式名称が「鹿苑寺」であるように、「銀閣寺」にも「慈照寺」という正式名称があります。「金閣寺」と同じく、臨済宗相国寺派大本山である相国寺の塔頭の一つとして京都観光で訪れる方が多い名所です。

この「銀閣寺」には、散歩や京都観光で訪れた方の多くが抱く疑問があります。それが「金閣寺」と違い、銀で装飾されているわけではないと言う点です。

これには諸説あります。

「金閣寺」と対にして銀箔を貼る予定であったものの、世相や予算など何らかの理由で断念したという説、かつては銀箔が貼られていたけれど剥がれてしまったという説、単純に建築様式が似ているため、金閣に対して銀閣と呼ぶようになったという説、派手なふるまいを好んだ「義満」と、政治には控えめであった「義政」の性格を対比した説など、京都人の中でも今尚ながら、様々な推測が飛び交っています。

銀は金のように薄く伸ばすことが難しいことや、金閣、銀閣と呼ばれるようになったのが江戸時代以降であることを考えると、銀箔が貼ってあったという確からしさは薄い気がします。
(実際に科学調査を行い、銀箔はなかったという結論も出ているとのことです)

正解を得ることはできませんが、「金閣寺」散歩へ訪れた後、静けさをまとう「銀閣寺」散歩で感じる荘厳な雰囲気は、見た目とは違う部分でどこか対になっているように感じるのは確か。江戸時代の人たちも、同じような気持ちで京都が誇る建造物を、眺めていたのではないでしょうか。

さて、この銀閣寺を造営した「足利義政」は、お坊ちゃん育ちだったようで、当時からキナ臭い政治や口うるさい管領、政治の実権を奪おうとする有力な守護大名に辟易していたのだと思われます。幕府は財政難であった中、さらに土一揆が起こるなど、滅入ってしまう日々だったと想像されます。

やがて嫡子「義尚」が生まれたことで、将軍職を譲りますが、これが引き金になって応仁の乱を招いてしまう結果となります。正室である「日野富子」は我が子かわいさと、権力を手中にしたいとの欲望により、山名宗全を巻き込み政権を私物化したことも推察されます。

上昇志向のある野心家として、ある意味夫「義政」よりも政治家らしいような気がしないでもありません。そんな「富子」から逃れるように、義政は東山の山荘に移り、銀閣の造営を始めました。しかし残念なことに、銀閣の完成まえに「義政」は死を迎えます。これほど美しく立派な建物が完成したと言うのに、一度もくつろぐことができなかったと言うのは残念な気がしますね。

京都、東山文化の象徴とも言える「銀閣寺」には、散歩してみると分かりますが、金閣寺のような派手さは全くありません。ところが「銀閣」を眼前にしてみると、こぢんまりとした装いの中に秘められた渋さが、じわじわと胸へ伝わってきます。

庭も広くはないのですが、錦鏡池や向月台などを散歩してみると、配置や造作が何となくリズミカルな雰囲気で、非常に京都らしいのです。御所様(義政)は、政務や政局に関わるゴタゴタといった世の喧騒に背を向け、枯淡・幽寂な世界、ひいてはわび・さびの世界に浸っていったのだと思います。

この庭を見ながら、「義政」がのんびり散歩を楽しめていたら、戦乱の世で疲れた心も少しは休まったでしょう。「義政」の願いは叶いませんでしたが、「銀閣寺」は今も、京都まちなか散歩へ訪れる私たちにそっと手を広げ、迎え入れてくれています。

参考URL
http://www.shokoku-ji.jp/g_about.html

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