厳かな!京都御所

とかくに散歩に出かけますと足が向く先は「御所」なのですが、京都まちなか散歩に出かけたり、季節の移ろいを感じようと花を見に出かけたりとよくも飽きない自分に呆れてしまいます。その御所なのですが、きちんと正確に申しますと、私がよく散歩に訪れますのは「京都御苑」で一般にいう国民公園を指します。「京都御所」は、「京都御苑」の中にあり、明治天皇が東京に移られるまで天皇がお住まいになっておられた御殿となります。

平安京遷都の際は、千本丸太町付近にありましたが、度重なる火災により、現在の位置に定まったとのことです。

2016年7月からは一般公開されることとなりましたが、それまでは春・秋の5日間に限って一般公開されていまして、頻繁に散歩に訪れる身ではありますが、私の個人的な感覚では今もたやすく近づくのは恐れ多いと感じてしまいます。幼き日から見ていた御所の壁や立派な御門は、天皇がおられたのだからそれは立派な御殿があるのだろうと目に映っておりました。今となっては時代錯誤も甚だしいですが、やはり神秘性を感じてしまいます。

今回、10月の下旬の中秋にいつも参加しております散策講座に行ってまいりました。

ぶらぶらと散歩をしつつ烏丸今出川を下り、乾御門から御苑に入りますと、右手に大きな銀杏の木(左の写真)が見えてきます。ここには摂政、関白を務めた一条家の屋敷がありました。

清所門から御所に入りしばらく行きますと御車寄(左の写真)が見えてきます。公卿をはじめとする官位の高い貴族などが、儀式や天皇との対面のために使用した玄関です。
右の写真は、宜秋門です。三位以上の大名、摂家、親王、門跡、公家たちが通ることを許された門です。江戸時代、大名の多くは三位以下でしたので、この門ではなく清所門から出入りを許されたとのことです。それも一人のみでの出入りとなり、その後、浅沓(あさぐつ)に履き替えさせられ、歩きにくい思いをしたようです。
講師の方も説明されておられましたが、御所は武家にとっては「アウェー」でとても居心地の悪い場所だったと思われます。

 

 

 

 

 

 

散歩を続けますと、諸大夫の間が見えてきます。正式な御用で参内した公家や将軍家の使者の控えの間です。こちらも身分(官位)に応じて部屋が決まっており、奥に行くほど身分が高く、「虎の間」、「鶴の間」、「桜の間」と襖の画にちなんで呼ばれています。ここでも武家は居心地の悪い思いをしたようで、中に入れてもらえなかったり、ちょっとした無作法を公家に嘲笑されたようです。

ただ、公家は貧乏でしたので少しのお金を握らすと態度が一変したとか(真偽は定かではありませんが)

高御座、御帳台が来年の新しい天皇陛下の即位に用いられるため、東京に送られた旨報道されていました。現在は、写真(右の写真)が展示されていました。
講師の方が非常に興味深いことを話されていたのですが、京都で即位の礼は警備の関係上どうしてもできないとのことでした。東京は明治以降、首都機能を強化させ、あらゆる側面に対応できるまちへと変貌を遂げていたのです。その間、京都は文化観光のまちへと進化していました。

京都御所内でもっとも格式の高い正殿、紫宸殿と建礼門です。

紫宸殿上からみて(天皇が南に向いておられる視線から)左側に「左近の桜」、右側に「右近の橘」が配置されています。京都まちなか散歩をされている方も左右が逆?とお感じになるかもしれませんが、こうした理由です。また、京都のまちの左京・右京の配置とも同じです。

清涼殿は紫宸殿の北西に位置し、天皇の日常生活の御殿とされました。

こちらを訪れるのは2度目なのですが、今回の散策講座を通じて学ぶことが多くあり、有益でした。また、じっくりと散歩を通じて当時に思いを寄せる大切さも学びました。
長く政権を握っていた武家にとって、自分たちとは異質な公家の社会には距離感があったと思われますし、御所に参内するのはやはり気が進まなかったと感じられますね。
まちなかに広大な御苑が存在し、雑踏を遮断したまちなか散歩には絶好の空間だと改めて親しみを感じました。京都御所には、平安時代からのそれぞれ時代の物語を受けとめることができましたし、やはり畏敬の念も感じました。

これからも御所へのまちなか散歩、もちろん続けます!

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