源氏のはじまり!六孫王神社

近畿には「源氏三神社」と呼ばれる源氏とゆかりの深い神社があります。その中の一つ、「六孫王神社(ろくそんのうじんじゃ)」は京都にあり、清和源氏の始祖を祀っていることで有名です。

本日は散歩の足を南へと向け、この「六孫王神社」へと京都まちなか散歩へ参ることにいたします。「六孫王神社」は、京都市南区、西八条に位置します。
祭神である「六孫王大神」は、源経基のことを指しています。清和天皇の六男を父とし、天皇の孫にあたるとのことで「六孫王」と呼ばれるようになりました。

敷き詰められた石の道を行きますと、やがて神社が目に入ります。春の季節には両脇に立ち並ぶ桜がピンク色のトンネルを作る、美しい散歩道としても知られていますよ。とはいえ、他の桜スポットよりは人が少ない印象ですので、京都で静かにお花見を楽しみたい方向けの場所と言えます。

「東寺」へ参った方は、5分ほどの散歩でこちらへたどり着くことができるため、京都の風景を眺めながら、訪れてみてはいかがでしょうか?源氏の始まりに想いを馳せながら、のんびりと散歩できますよ。

「六孫王神社」への京都まちなか散歩でしたので、事前に源氏の系譜を見てみました。すると、経基から満仲、嫡流としての義家(八幡太郎)と続くのですが、足利・新田・細川・山名・今川等の武将が多数輩出されておりいずれも名門の武家であることが分かります。

源氏というと頼朝が征夷大将軍に任じられ、というより征夷大将軍として全国に守護・地頭を置いたことで有名です。おそらくですが、武家の棟梁としての権威と武力という二本柱で統治することを公に示す証として、この職を欲したのでしょう。

武家政権の長=征夷大将軍ですが、頼朝以後も源氏であることが必須の条件のように感じられます。しかし、相対的に位置する平氏の心境はどうだったのでしょう?

「桓武天皇」を祖としているため、桓武平氏として家格は十分だと言えますし、清盛は太政大臣まで上り詰め、平相国といわれた権力者です。ところが、源平合戦に敗れ平氏の地位は下降していきます。鎌倉幕府の執権職で北条氏は実質的な権力を握りましたが、2番手を固持することでその権威と武威を示し続けました。

これは私見ですが、朝廷との関係や時代における権力を掌握するタイミングが合致すれば平氏も征夷大将軍としての武家政権を樹立することも可能だったのではないかと考えます。
歴史はほんの些細な一瞬で変化します。今この京都のまちがあること、日々の散歩道にはたくさんの偶然と出会いが隠されているのでしょうね。

京都まちなか散歩を続けましょう。この神社はもともと「源経基」の邸宅であり、亡くなる際、「霊魂滅するとも龍となり西八条の池に住みて子孫の繁栄を祈るゆえにこの地に葬れ」と伝えたとのことです。そのような理由で境内にある池には、鯉魚塚が建てられています。

そばにある弁天堂には、経基の子である満仲の産湯に使用したと言われる誕生水が汲み上げられています。ここは、京都名水の一つとしても知られていますので、散歩の際には厳かに手を浸してみてはいかがでしょうか?

さらに京都まちなか散歩を続けると、境内にある宝物庫へたどり着きました。てっきり源氏の家紋笹竜胆と思ったのですが、どうやらこれはちがうなあと散歩の足を止めしばし思考。

後から調べたところ、六孫王は牡丹を特に好んでおり、社紋も牡丹にされたそうです。当時の京都にはたくさんの牡丹が咲き乱れていたのだとか。いっぱいの牡丹を眺めながら散歩を楽しまれたのではないかとも思います。花言葉は「王者の風格」と言うそうですから、なかなかお似合いの花だと言えます。

参考URL
http://www.rokunomiya.ecnet.jp/index.html

六孫王神社