本日の京都まちなか散歩は「首途八幡宮(かどではちまんぐう)」を目指していきます。
「首途八幡宮」は、京都市上京区「西陣」に位置しています。「西陣」の名は、応仁の乱の際、西軍の総大将である「山名宗全」らが陣を置いたことに由来しています。その後、京都が誇る西陣織が普及し「織物のまち」「糸へんの職に従事する人たちが集まるまち」として発展していきます。
この辺りを散歩する際、いつも気になるのが「西陣」が指し示す範囲です。私感ではありますが、地図上で囲んでみると、東:堀川 西:千本 南:下立売 北:寺之内あたりではないかと考えています。
散歩の足を早めていくと「首途八幡宮」の入り口が目に入ります。このお社は、かつて「源義経」が奥州を目指し旅立った「出発の地」として知られています。これから京都まちなか散歩を趣味にされたいという方は、この地からスタートすると縁起が良さそうです。この日も、旅の安全を願う観光客が訪れていました。
「首途八幡宮」には、旅にちなんだ色々な御守も売られています。車によく乗る方はには鳩を象った交通安全ステッカー、旅行前には、旅行安全を願う御守などが人気となっています。もちろん、京都まちなか散歩の安全祈願にも最適ですね。
さて、京都の地を後にした「源義経」は、平治の乱で敗れた「義朝」の子です。鞍馬に預けられ僧になることを強いられますが、これに反発し「金売吉次」とともに奥州へ旅立つことになりました。この「金売吉次」の住まいがこの地にあり、屋敷の跡地が現在の「首途八幡宮」になっています。
「平氏憎し。いつの日か滅ぼさん」
という思いを秘め、いつの日かの「平氏滅亡」そして「源氏再興」を心のどこかで誓っていたのではないでしょうか。京都まちなか散歩ののどかさとは程遠い、奥州への道。境内には「源義経奥州首途の地」と記された石碑があり、歴史好きや源氏に深い興味を持っておらえる方たちが、多く集まっています。
そんな「源義経」ですが、その一生はあまり恵まれたものとは言えません。成長した「義経」は、めざましい活躍で平氏を滅亡に追い込みますが、後白河法皇はそれを喜ばしく思いません。源氏が力を持ちすぎてしまう前に、「頼朝」の猜疑心を上手に利用し、法皇の知略でもって兄「頼朝」が弟を討つことになるのです。
その後、逃げ延びた「義経」ですが、味方の裏切りに遭い31歳の若さで自害の道を選びます。時を同じくして、「義経」を守った「弁慶」も命を落としました。
また室町時代には、「足利尊氏」も弟の「直義」を毒殺してしまいますが、兄弟が争うこと、これは源氏の運命なのかと思わずにはいられません。
京都まちなか散歩では、このような悲しい物語に出会うこともあります。しかし、その歴史があるからこそ、今の京都があり自分がいる。そう考えると、今後も目を背けることなく、ありのままの京都と向き合うまちなか散歩がしたいと思うのです。
参考URL
http://www.nishijin.net/kadodehachimangu/