京都には、新選組ゆかりの場所が多く存在しています。観光の際には、その華々しい活躍を辿りながら、京都まちなか散歩をしている方も多いでしょう。本日はそんな新選組を辿って壬生界隈をぶらり散歩へ参ります。
最初に散歩へ向かうのは「八木邸」です。ここは新選組発祥の地で、江戸から京都へやってきた彼らが屯所としていた場所です。新選組を求めて京都散歩をされる方は、「八木邸」から散歩を始められることが多いでしょう。ガイド付きの見学ツアーも用意され、新選組について詳しく知りたい観光客から人気があるようです。
土方や沖田たちが芹沢鴨の暗殺を企てた際、芹沢が逃げようとしてつまづいた文机も当時のままです。
また、八木邸のお隣に「京都鶴屋」があり、銘菓「屯所餅」をいただきながら散歩の途中一息つけることができます。
その後は「旧前川邸」へと京都まちなか散歩を進めました。ここには、屯所として実際に使われていた屋敷が残されています。屋敷は個人宅のため入ることができませんが、土日祝日の
10:00~17:00への散歩であれば、玄関でオリジナルグッズの販売が行われています。新選組ファンの方は、是非このタイミングを狙って、京都のまちの風情を楽しみつつ散歩へ出かけてみて下さい。
毎年3月には、「前川邸」で切腹し亡くなった総長山南敬助を偲ぶ「山南忌」も行われています。参加ご希望の方は12月1日~1月31日までに往復はがきで申し込む必要があるため、忘れずに手続きしておきましょう。
さて、次の散歩の目的地は「壬生寺(みぶでら)」に参ります。幕末の京都を記した、文久二年(1862年)の「新増細見京繪圖大全」という古地図を見てみると、「千本通」より西には通りが乏しいことに気づきます。とてもまちが形成されていたとは思えず、地図にも記載されているとおりの畑であったようです。
つまり、この「壬生寺」界隈も、おそらく田畑であったと考えられます。新選組とつながりの深い「八木邸」「旧前川邸」「壬生寺」ものどかな中にあったのではと推察できます。
「壬生」から南の方角にポツンと島原の灯が見えていたのでは? そんなことを考えながら京都まちなか散歩の足を進めていくと、徐々に「壬生寺」が近づいてきました。
この寺には、局長である「近藤勇」の銅像や、隊士11人の墓である「壬生塚」があります。かつては壬生浪と蔑まれた京都の浪士たちですが、容保公により會津藩お抱えとなり、新選組の名をいただいたことで、世評が一気に変わっていきました。
新選組の面影を求めて「壬生寺」へ散歩に来られた方は、阿弥陀堂の売店へも是非立ち寄ってみて下さい。新選組関連の書籍やグッズを買い求められます。200円で拝観できる地階の「壬生寺歴史資料室」でも、京都や壬生の歴史を知ることができます。
さらに、次は「光縁寺」に向けて、京都のまちを再びぶらりと散歩いたしましょう。「壬生寺」から「光縁寺」までは、5分くらいで到着できます。のんびりと散歩しながらふと思いを巡らせたのは、当時のイデオロギーについてです。尊王は攘夷と結びつき、やがて倒幕に移行しました。
佐幕も攘夷と結びつきますが、何とか幕藩体制の維持に努めようとします。しかし、急進的志士も佐幕の士も基本的には天皇を敬っているため、尊王はどちらにも理解されていた思想になります。
孝明天皇の信任が厚かった容保公は、もちろん尊王主義であり将軍家への崇拝からしても佐幕主義でもありました。これらの背景を考えると、新選組も尊王佐幕主義であったのではと感じてしまうのです。
到着した「光縁寺」には、総長「山南敬介」をはじめ、松原忠司などの墓があります。新撰組と決別した後に暗殺された伊東甲子太郎や藤堂平助などの墓も「光縁寺」にあったのですが、新選組が京都を去った後「戒光寺」へ改葬されました。
山南さんに香をあげに、かつて「光縁寺」へ京都まちなか散歩にて訪れました。そこで思い出すのがこんな逸話です。ここ「光縁寺」には、山南さんの墓とともに「沖田氏縁者」の墓があるのですが、寺の住職のお話しでは、ここに眠っているのは山南さんの恋人「明里(あけさと)」の墓であるとはっきり言われていました。
山南さん、沖田の縁者、明里と人物模様がややこしく少し頭の整理がつかなかったことを記憶しています。
これも、教科書では学ぶことのできない、歴史の裏側に触れた一件でした。
最近ではなんでもインターネットで検索してしまいがちですが、実際の足で京都を巡るからこそ、こういった生の話が聞けます。これも京都まちなか散歩の醍醐味だと言えます。
参考URL
http://www.mibudera.com
https://ja.kyoto.travel/search-keyword.php?keywords=%E6%96%B0%E9%81%B8%E7%B5%84