京都には有名な観光地や定番の散歩道でなくても、誰もが知っている名所がいくつもあります。本日京都まちなか散歩へ踏み出す「本能寺」も、その一つではないでしょうか?「本能寺」の名前は知っていても、京都にあるとは知らない方も多く、京都のまちなかにあると伝えると驚かれることもあるくらいです。
現在は京都市中京区寺町御池下ルにありますが、もともとはこの場所ではありませんでした。現在地より少し西、かつて本能小学校があった(現在は老人ホームとなっています)小川通蛸薬師界隈に位置していたのが、豊臣秀吉により移転を命ぜられました。
距離としては1キロほどですので、京都まちなか散歩の際には旧地も訪れてみてはいかがでしょうか?そこに「本能寺」があったことを示す、石碑が建てられています。京都まちなか散歩での思いがけない出会いと感じられます。
さて、この地へ散歩に訪れる人たちの頭を過るのが、「織田信長」が命を落とした「本能寺の変」でしょう。そして、信長を追い詰めた人物として「明智光秀」が想起されますが、真因については諸説あり、今後の研究に期待するところです。
光秀には、確かに信長に対する恨みがあったと思いますが、「武を以て敵を制し天下を治める」という強い気概を持った上司です。また、「部下の尻を叩き続けて成果を出させる」というポリシーの持ち主であることは納得済みで家臣となったのですから、「石見・出雲を切り取り次第」と言われても、光秀はひるまず前向きに考えたのではないでしょうか。
かつて鎌倉幕府が倒れた際、「足利尊氏」と「新田義貞」は源氏、北条は平氏でここにも源平の争いがあったのでは?と思われます。また、「足利義昭」に仕えていた光秀には源氏の再興という気持ちが少なからずあったのではないか、とも推理するのです。
これは散歩へ訪れる前に読んだ、最近の新聞記事による内容ですが、光秀が「本能寺の変」後に反信長勢力の豪族に送った書状の原本が見つかり、義昭の入洛を協力するよう求める旨の記載があったとのことです。その裏には室町幕府の再興を考えていたのではとの説が載っておりました。
私見ですが、光秀も源氏の土岐氏の庶流で、同じ源氏の義昭に仕えていた点からも、室町幕府の再興と源氏の再興を考えていたのかもしれません。一説によると信長は、平氏の流れでもあるとか……詳細は不明ですが。
また、四季折々の自然も美しいですね。この時期はイチョウの葉が京都へ秋の訪れを告げながら、散歩の目を優しく休めてくれました。
京都観光へ訪れた方には、便利な立地でもある「本能寺」
寺院の隣に「ホテル本能寺」があり趣のある昔ながらの良い雰囲気を残していますが、老朽化によりホテル業は一時中断。2019年10月に新しく建て替えられるそうですので、遠方から京都まちなか散歩を楽しみに来られる方は、利用してみてはいかがでしょう。
参考URL
http://www.kyoto-honnouji.jp/index.html
http://www.honnoji.co.jp/index.htm